新堀川の歴史について
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今週のゲストは、新堀川の歴史と生態系に高い関心を持たれておられる下司孝之さんと西岡謙一さんです。 昨日は明治維新に大きな働きをした人物が新堀川周辺に住んでいたお話を聞きました。今日のテーマは「新堀川の歴史について」お話をお聞きします。 いつごろ新堀川は出来たのでしょうか?船入川同様の運河のようですが? それは野中兼山がこしらえたのでしょうか?材木町ゆかりの説明もありましたが・・ |
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西岡 野中兼山が関係していたかどうかはわかりませんが、1600年代の初め、江戸時代の初めの頃には新堀川は出来ていました。 材木町のゆかりですが、昔は重たいものは船でしか運べませんでした。材木を運搬するのに必要でしたし、商人を配置したのではないかと思います。 |
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下司 西岡さんが言われたように江戸時代の初めに新堀川が出来ました。お城下の防衛線でもありましたし、お城造りの重要な区画割にもなっていました。 |
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新堀川というのは、江ノ口川と堀川ー浦戸湾を繋ぐ運河でした。当時は西岡さんの言われるように材木商がいて、近くには市場もあったようですね。 運河ということは、物資を船で運搬していたのでしょうか? 海運でどのような物資を運んでいたのでしょうか? 西岡さんのご先祖も木炭を 集積し、船で運搬していたようにも聞きましたけれも・・。 |
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西岡 うちの先祖が新堀川へ来たのは100年ぐらい前です。東の方から出てきまして、商売をし始めたようです。それは新堀川があって炭を運んだり、大阪へ出したりするので便利であったようですそういうことでここへ住みついたと思います。 |
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そうしますと船は新堀川から堀川へ出て、浦戸湾を通って大阪方面へ巡航していたのでしょうか? | |
西岡 というか、若松町あたりで積み替え、機帆船にて積み出していたようです。掘りを動くのは底が平たい艀のような船。大阪へ行くためには大きな船に堀川の若松町付近で積み替える。ということです。 |
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当時(江戸時代)はどのような物資を新堀川から運んでいたのでしょうか? | |
明治の初め頃と思われる高知市地図。中央右の木屋橋からハネ橋までが新堀川。新街、北街には商人街でした。地図の右手の農人町の隣が若松町。浦戸湾につながっており、関西方面への航路になっていました。
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西岡 炭は当時はまだ運んでいないでしょう。乾物や和紙、材木などではないでしょうか。材木が量的には多かったと思います。 | |
ということは城下町でも上町とかお城に近いところは武家屋敷町(上野地図の左手)。新堀川周辺は当時は産業集積がされていた地域だったのですね。 1日目の話にもありましたが、下町で商業なども盛んでしたから、塾などの学問なども発展したのですね。 |
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下司 そうですね。商業には当然物品の購入もあるわけですね。それに伴う情報もどっさり入ってきます。武士が支配する世の中で何が求められているかと言いますと、町民にとりましては「情報」です。学問なのです。 1625年の山内2代目時代に、既に新堀川に専売特許を与える法度をこしらえています。ですから商人たちの力の蓄積はちゃんと評価すべきではないでしょうか? |
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西岡さんのお話で、町民が自ら新堀川を掘りこしらえたということを聞きました。これは今で言うならば、高知県知事である橋本大二郎さんが言われている「住民力」、行政に頼らなくて市民各位が力をあわせ出し合って物事を解決していく。公共事業までやってしまう。そういうことに繋がるのではないかと思いますけれども・・。 | |
西岡 庶民とか下級武士が多く新堀川周辺にはいました。昔ですので町民力ですね。自分達でやらざるを得ない面もあったかもしれません。ですのでいろんな工夫をしまして、知恵と、力もついてきたと思いますね。 今でも住民力とか言われていますが、今から400年前に既に土佐の高知では当たり前になっていました。 |
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旧材木町の表示。江戸の初めに切り開いたあります。
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木屋橋付近の現在の新堀川。清流のようです。
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いつごろまで運河として活用されていたのでしょうか? | |
西岡 自分が子どもの時(昭和30年代)も活用されていましたから。砂利などを運んでいたりしていました。小学5〜6年生の時まで水路は利用されていました。 | |
下司 板を渡って、もっこを担いでそういう世界ですね。 | |
新堀川が高知市の都市計画によりまして、暗渠になりコンクリートの蓋をかぶせ駐車場になっています。これはいつごろからそのようになってのでしょうか? | |
西岡 昭和40年代からではないでしょうか? | |
土地がないから高知市は掘りも埋め、中小河川も埋めました。はりまや橋の裏を流れる川も全部埋めました。それを公園にしたり、駐車場にしたりする都市政策をやり続けてきました。 その延長で新堀川を埋め立て暗渠にし、道路を拡幅する計画もあるようですね。 下司さんに伺いますが、もったいないようですね。 |
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現在も新堀川の一部は既に暗渠になり、コンクリートの蓋の上は契約駐車場に。右は工事の様子です。
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下司 三翠園ホテルのあたりまで船で底の浅いものであれば行けました。河田少龍の碑があります土佐橋ですね。土佐橋のところから殿様が船出をしていくわけですね。 ちょうど得月楼のあたりから出発していましたので。歴史の遺産というものを軽々しく埋め立てるものでは有りません。 |
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歴史を感じる地域の資源の一つが新堀川でありますね。新堀川の沿岸に中江兆民の碑が建っています。兆民通りという表示がありましたが。それは中江兆民さん生まれた家の跡があるのでしょうか? | |
下司 そうですね。そこで育ったわけです。当然新堀川で泳いだりとか、釣りなども親しんでいたと思いますよね。 そのあたりの歴史や由来をもっと大事にすべきであると思いますね。 |
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兆民通りを表す表示です。
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