高知と朝鮮との繋がりについて
今週のゲストは、在日本朝鮮人総聯合会高知県本部常任委員会委員長の黄英信(ファン・ヨンシン)さんです。今日のテーマは「高知と朝鮮との繋がりについて」でお話を伺います。
 歴史上高知と朝鮮との繋がりについていろんな事例はあるのでしょうか?ご紹介ください。
高知と朝鮮との繋がりは歴史的に大変深かったようですね。高知県教育委員会が行いました南国市の田村遺跡の発掘調査にて、約2300年前の弥生時代の前期初頭の集落郡が見つかりました。
 遺跡群の出土品から九州地方に「稲作文化が」伝承されたと同時期に土佐の地にもそのような生活文化を持ったものが渡来していたということです。

 具体的には春野町秋山の四国霊場34番札所の種間(たねま)寺。これは聖徳太子の命で浪速の四天王寺の建立を終えた帰りに船が遭難し、百済の仏工たちが土佐に漂着しました。彼らが土佐に滞在中に、帰途の平安無事を祈って寺を建て。薬師如来を安置しました。

 長宗我部元親は元来朝鮮民族の渡来人秦氏の末裔です。秦という字があります。秦と言いますのは朝鮮では、チンという苗字です。彼が土佐国の城主として君臨し、戦国大名として活躍しましたが、いろいろな影響を高知に与えています。


高知市にある唐人(とうじん)町は、昔豊臣秀吉による朝鮮侵攻のおり、朝鮮から連れてこられた人達が居住していたと言われています。

城下町のコリアタウンだったのでしょうか?

 言われたように豊臣秀吉の朝鮮侵略のおり、出兵した諸大名が競って朝鮮の陶工、学者、技術者を大量に拉致し日本各地に連行しました。長宗我部氏も同様でした。
 その中に朴好仁と一族数10人も連れて来られました。長宗我部元親は浦戸城下に居住させていました。後の山内時代になりまして、鏡川べりに移住させられました。それが今の唐人町あたりです。
 そこで縄で縛って肩に担げるとも言う固い豆腐です。それが土佐における豆腐造りの始まりだと言われています。高知での田舎豆腐と言われ、固い豆腐です。まさに朝鮮豆腐ですね。

 朴好仁はある本には医者との記述もあります。高知市史では、慶尚道秋月城主とされています。そこから彼らは秋月の性を称したと言われています。

 確か大方町に朝鮮国女の墓があるようなのですが、どのような由来があるのかわかりません。どのような人物であったのでしょうか?
 これも豊臣秀吉の朝鮮侵略の爪あとですね。大方町の上川口ですが、朝鮮国女の墓があります。当時長宗我部の配下の川口村の小谷与十郎が朝鮮の女性を何人か拉致し連れて帰りました。
 1人は身を投げて亡くなりました。墓は異国の地で望郷の願いもかなわず生涯を閉じた朝鮮女性のものです。彼女は近隣の人達に機織の技術を伝え慕われたたと言われています。

 今から30年くらい前ですが、大方町に「朝鮮国女の墓」があると聞きました。お墓の近くの高校生たちが清掃をしたりしていました。私たちはその由来をきちんと調査してしっかりと保存すべきだと思いました。
 この女性の悲運の歴史を偲ぶとともに、新たな友好親善の架け橋にしようということで、当時の高知大学の学関田英里先生を会長に「朝鮮国女の墓を守る会」を結成して、そしてその由来を調査し、現在の墓を整備しました。20数年間墓前祭をしてまいりました。その後大方町に委譲し、教育委員会が管理を引き継いでいます。

仁淀川水系にあります加枝ダムや筏津ダムは、朝鮮人労働者によって 建設されたものだと関係者に聞きました。他にもそのような事例はあ るのでしょうか?
 加枝ダムは私も現地へ行きまして調査をしましたので、間違いありまえん。加枝ダムは当時高知県で建設されています。また高知県独自で朝鮮から勤労者を強制連行して建設されたものです。県電気事業史に掲載されています。
      家地川ダム(窪川町)
長沢ダム(本川村)
 そのほかには白滝鉱山、長沢ダムにも強制連行された多くの同胞により採掘され、建設に従事されました。渡川改修工事や柏島〜平山の軍用道路工事。大正町の津賀ダム、江川崎、土佐久礼などの鉄道敷設工事。そして日章飛行場(現高知龍馬空港)工事では3500人の朝鮮人が強制徴用され労働していました。
 窪川家地川ダムから佐賀発電所への導水路工事、池川町の富岡鉱山などもあります。富岡鉱山も行きましたが向かいの山に無数の石を置いただけの無縁墓がありました。話を聞きますと鉱山作業で亡くなった人を夜中に運んで埋めたとのことでした。
 高知県には、当時最大9000人以上の朝鮮人が強制連行され、危険な工事現場で働かされていました。
 高知ではカツオとにんにくを一緒に食べます。献杯という習慣もあり ます。朝鮮と習慣が似ているように思いますが交流があったからなの でしょうか。
 同様の質問はよく聞かれます。共通の文化や慣習になるためには何らかの交流があったからではないかと思われますね。私の勝手な推測ですが、長宗我部元親。彼は朝鮮人の末裔です。日本でも朝鮮人の末裔が戦国大名になったのは彼だけです。彼の影響があるのではと推論しています。

 その食文化が広がったのではないかと。高知ではにんにくを食べますし、献杯の習慣もあります。長宗我部元親と朴好仁の影響があるのではないかと思われます。朝鮮ではにんにくを使わない料理はありません。日本料理でにんにくを使用した料理はほとんどお目にかかったことはありません。
 高知の「皿鉢(さわち)料理」というのも日本では特異ですね。他の地域では1人1膳が元来主流だと思いますが。朝鮮料理では一つの料理をひとつのお皿に大盛りにして、みんながとり合って食べます。
 
 献杯など、お酒の飲み方も、ついで注がれてという飲み方も似ています。

高知独特の料理「皿鉢(さわち)料理」。

高知と朝鮮との共通の習慣はいくつかあります。

朝鮮半島の人達が、なぜ高知に居住し、生活をされているのか。その ことを高知県の大多数の人達は知らないと思います。母国出身の在日 1世と、2世、3世以降の人達の意識は変化されたのでしょうか?
 なぜ朝鮮人が高知に存在するのか?このことを正しく理解されることが重要です。ところが日本では、学校でも社会でも正確に教えられていません。それが問題だ思います。

 記録上高知県で朝鮮人が確認できるのは1913年ですが、僅か4人でした。約30年後の1934年には885人。5年後の1939年に2412人。(1939年に旧日本政府は朝鮮に国家総動員法を制定、39年から実施しました。)
 1944年には9749人に増加しています。
 この数字はなにを物語っているのでしょうか?それは「日本が戦争遂で不足した労働の補充ために行った朝鮮人強制連行の結果が、在日朝鮮人集団をつくりだした」のであります。1945年8月15日の時点で、在日朝鮮人の数は全国で約240万人になっていました。

 日本の教育では、過去日本がアジア諸国に対する侵略、特に朝鮮での植民地支配の過酷極まりない収奪の歴史を正しく教えていません。


 国と生活権を奪い、民族の言葉(日本語の強制)と名前まで奪い(創氏改名の強制)、強制連行による過酷な労働、従軍慰安婦への強制など過去の歴史を正しく教えられていません。


日本の舵取りをするべき大臣とか政権党の要職者が、繰り返し「過去の歴史」を美化し、アジアの侵略や過酷な支配の真実の歴史を否定する発言を繰り返すのを見ていますと、私は大変な脅威と反感を感じます。それは私だけではないと思います。

(写真は日本の植民地時代の謝罪や補償を求める韓国の人たちの抗議運動の様子です)

私は朝鮮と日本の歴史で不幸な時期は、豊臣秀吉による侵略と、明治以後の植民地支配の歴史以降の両国の長い歴史からすれば短い期間です。この短い期間を除けば、朝鮮と日本は良好な関係であったのです。

 私が願うのは、一時期の不幸で険悪な時代の名残を1日も早く清算し、共通の歴史認識、信頼関係の上に。正に隣国としての真の友好、協力関係が回復されることです。
 

 朝鮮民主主義共和国に高知から行く場合は。どのような経路なのでしょうか?中国経由になるのでしょうか?
 いくつかの経路があります。直行便としては半定期的な船便があります。新潟と朝鮮の有名な景勝地金剛山近くの港湾都市元山を結ぶ直行船「マンビョンボン92号」があります。日本人も手続きさえすれば利用できます。

 航空便は名古屋とピョンヤンを結ぶチャーター直行便がありますが現在は休止しています。

 ロシア経由では、新潟ーウラジオ経由ストック経由ーピョンヤン入りがあります。中国経由では、成田、関空ー北京(1泊)−ピョンヤン入り、ハンヨウ経由ーピョンヤン入りという方法があります。

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