○ 近代サーフィンとデューク・カハモナク
20世紀初頭になって再びサーフィンをする動きがハワイで起こりました。再び教会の人々はこれを阻止しようとしましたが、ワイキキの海岸だけは黙認しました。理由は解りませんが、ヨーロッパやアメリカから移り住んでいる人たちを海難から守るという意味があったのかもしれません。
これがきっかけとなりハワイアンだけでなく移住してきた人達もサーフィンを楽しむようになります。そのなかにジョージ・フリースという青年がいました。彼はカリフォルニアに始めてサーフィンを伝えた人でハンティントンビーチで初めてサーフィンのエキジビションをしました。また彼はカリフォルニアの最初のライフガードになり1907年には日本人の漁師を七名救助したという記録も残っています。ハワイも急速な観光地化に伴ってライフガード組織が必要になりました。
その主要な役割を担ったカハナモク家の長男が「近代サーフィンの父」と呼ばれるデューク・カハナモクです。サーファーとしてそしてスイマーとして卓越した技術を持っていたデュークは1912年にストックホルムオリンピックのアメリカ代表として出場し100mm自由形で世界新記録を容易に達成します。しかもそれから17年間世界一の座を維持し続けました。一躍世界的なスターとなったデュークは世界の水泳競技大会に招待されるようになります。デュークは招かれた国々でチャンスがあればサーフィンをしてこの素晴しいスポーツの普及に努めました。特に1915年の1月15日にオーストラリアのシドニーで行ったエキジビションは有名で、それによりオーストラリアではサーフィンは国民的なスポーツとして大きな発展を遂げています。デュークの偉大な功績により近代サーフィンの礎が築かれたといっても過言ではないでしょう。彼の偉業を称えるためにハワイのワイキキ海岸とオーストラリアのフレッシュウォーター海岸には彼のブロンズが建てられています。
こうして産声をあげた近代サーフィンは世界の各地で急速に発展します。とくにハワイ、カリフォルニアそしてオーストラリアではサーフィンクラブがいくつも組織されて独自の個性を持ったサーフィンスタイルが確立されていくようになります。サーフボードも、熱心で独創的なアイデアを持ったサーファーたちの試行錯誤によって発達していき、第二次世界大戦の後には現在も主流をなすグラスファイバーとウレタンフォーム製のサーフボードが誕生します。そのサーフボードの発達に伴ってサーフィンのライディングテクニックも高度になり現在もさらに進化しています。
そしてサーフィンのスタイルも多様化していきました。サーフボードにセールを取り付けたボードセイリング(ウィンドサーフィン)や足ヒレを着けて腹ばいになって滑るボディボードなども現在では別個のスポーツとして世界的に普及しているのはいうまでもありません。またサーフボードにストラップを着けてジェットスキーの補助を受けながら、ライディング不可能とされていたビッグウェーブを征服するトゥーインサーフィンという新しいサーフィンも生まれています。将来は普通のサーフィンにもストラップを着けるのが常識になるのではという予測もあります。また過去のものとされていたロングボードという1960年代に一般的であったサーフボートが復活してサーフィンの未来に新しい方向性を示しています。
|