温故知新ー商店街の歴史を振り返る
今週のゲストは、はりまや橋商店街振興組合事務局長の福島哲明さんと、、焼き菓子店「まみゆと」の谷ひろこさん毎週金曜日に「はりまや橋七輪サロン」などを主体的に運営されている西岡燃料店社長の西岡謙一さんです。今日のテーマは「温故知新ー商店街の歴史を振り返る」です。
 木造アーケードの完成した平成10年以前は、はりまや橋商店街は、中種商店街と言われていました。かつては高知で一番繁栄した時代もあったそうです。
福島 私の聞いているところでは、中種商店街は昔は高知で一番栄えていました。その繁栄がやがて京町へ移り、帯屋町へ移ったりしましたね。アーケードが最初に高知で出来たのも中種。それから一度立て替えしています。改装も1回しています。その時にカラー舗装もしたようです。カラー舗装が出来た頃から、ちょっと中種商店街は、京町が良くなり、帯屋町が良くなってきた状況であったようです。
なんでそうなのかといいますと、交通手段の変化、変遷だと思います。船が主力の交通手段だったのが、汽車がそれに変わりました。その原因のひとつではないでしょうか。荷物を昔は船で運搬し、小船で堀川へ運んでいました。
中種商店街のアーケード
初期のよさこい祭りの様子
谷さんは繁栄していたころの中種商店街の記憶はありますか?
 私は電車道側で生まれ育ちました。当時とでん会館があり人通りも多かったですね。よく中種には遊びに行った記憶はあります。(谷ひろこさんは、実家が中種から小川ひとつ隔てた当時は浦戸町と呼ばれていた電車道沿いに住んでいたそうです。)
それはいつ頃のことなのでしょうか?
 昭和30年代の終わりごろから、40年代に掛けてではないでしょうか。

当時は九反田に卸売市場もあり、問屋街の紺屋町も中種商店街に隣接していました。それだけ現在より商業集積もしていたようなのですが。。。。
谷 そうですね。人もたくさん住んでいましたね。
福島 はりまや橋商店街(旧中種商店街)のほうでは、葉山さんあたりが一番古いですね。それは国際劇場という映画館が昭和24年に消失してから葉山さんが入ってこられました。それ以前のお店はありません。魚の棚商店街では、福島の野菜店、澤本鮮魚店がその当時からあります。はりまや橋のたもとにあります国吉酒店もそのころから商売をされています。
中種の由来は、昔種崎方面の人達が住んでいたからなのでしょうか?
城下町時代との関係はどうだったのでしょうか?
福島 種崎から藩政時代に移住されていますね。中種の由来ですね。東種と中種という名前がついていたようです。浦戸町も同じですね。藩政時代にもすでに中種の商店街の骨格は出来上がっていたのですね。魚の棚自体も藩の許しで雨天時に雨がかからないようにアーケードではないですが、布の雨よけ、日よけを設置していたようです。魚の棚はその当時から商売をしていた記録が残っています。
 
 商店街も歴史があります。戦災や、南海地震、水害などの罹災からの復興はいかがでしたか?
福島 浸水した時期には高知市にはいませんでした。帰ったら水が引いていたようなので。
ただこのあいだの98水害の時は商店街の2階にある事務局に泊り込んでいました。商店主の自宅の電話番号を探して、電話を掛けまくりました。浸水する寸前に戻られ商品が助かる事例もありました。
当時は川と商店、海が隣接していたウォーターフロントでした。その後高知市の都市づくりは川を埋め立て道路にし、郊外型店舗を奨励する都市政策を推進してきました。それについてどう思われますか?
福島 今の時代は埋め立てたところに水路をこしらえたりしています。少し元へ戻ろうとされているのではないでしょうか?良い傾向ではないかと思います。しかしまた川を埋め立て道路にする計画もあり、目を光らせなくてはいけないと思います。
やはり歴史を大事にする商店街とか、住んでいる住民がそうでないと、物語性のあり面白いまちづくりにはならないと思います。
福島 森とか木はまちなかにないといけないものだと思います。いわゆるなごみですね。人々が生活するうえで必要なものですね。それを訴えて生きたいと思います。