あきらめないでの趣旨のこと
 
 今週のゲストはNPO法人自立サポートセンターあきらめないでの理事長の森本修作さんです。今日のテーマは「あきらめないでの趣旨のこと」です。障害者とのふれあいと自立を促すためにNPOを設立されたように聞いています。
「あきらめないで」とネーミングした理由はどんなところにあるのでしょうか?
私が障害者との交流事業に関心を持ちだしたのは、昭和60年7月に交通事故にあいました。私が軽四を運転し、信号待ちをしていて停車していたところへ、わき見運転していた後続車に時速80キロで衝突され、大怪我をしたことがありました。骨盤の上の3番目か6番目かの脊椎が変形し両足麻痺になりました。1年近くの入院を余儀なくされました。このまま車椅子の生活を覚悟していましたが、あらゆる治療(針や灸なども含め)が効果を上げ、幸いにも普通の生活が出来るようになりました。
そのときはああよかったと一件落着となり仕事(運送事業)に復帰しました。その記憶が蘇りましたのは、平成11年に「しまなみ街道の有効利用」というテーマにて、中四国連携軸主催で愛媛県で開催された時でした。兵庫県から来られていた「兵庫県移送ネットワーク」の人達との出会いでした。彼らは阪神大震災(1995年)の後に結成され、罹災者の移動の足代わりの移送サービスを行っていました。
その人達から聞きましたのは、「車椅子利用者のための海水浴」の話でした。彼らから第2回目の海水浴をして大盛況でしたと聞きました。私のほうから「今後是非声がけしてください。」と定期的な交流を約束し、交流を深めていきました。
森本さんはもともと運送業界の人でした。いくつかの運送業会社を経営されてきました。高知青年会議所でも先輩であり、大変元気の良い先輩でした。「あきらめないで」の趣旨は、交通事故に遭われた森本さんご自身へのメッセージでもあったということはよく理解することができました。
「あきらめないで」は障害者をサポートし、自立を支援する事業体のように伺っています。
 今一度、運送業と障害者の支援はどう繋がっているのでしょう?
運送業は私も30年以上携わってきました。自分の専門性を生かして、障害者との交流事業ができないかと、考えてきたのがきっかけです。
障害者と家族の「背中を押す」活動を通じて、森本さんが得られたこと、教えられことは何でしょうか?
まず自分の生活の中で、家族を考えました。今までは自分が死ぬまでは家内とか子供達が面倒を見てくれると何の疑問もなく考えていました。それがある日突然自分が障害を持ったときに、自分の世話をしてくれるはずの家族が自分より先に死んだ場合、自分はどのように生活するのだろうか?と考えました。自分が元気で動ける間に何らかのアクションを起こそうと思いました。自分自身が障害を将来持ち、家族が居なくなった後も生活出来るシステムづくりをこしらえたいと決意をしました。
あきらめないでの移動用の1BOXカーには、高知銀行やひまわり乳業のスポンサーが協賛されています。資金の支援獲得は大変なのではなかったでしょうか?
本業の運送屋で福祉事業部を立ち上げました。そこで2種タクシー免許を取得し、障害者の足代わりとして事業を開始しました。利用者に対しては「安い料金で、気軽に外出できる道具」として位置づけしています。タクシー料金が仮に1000円〜2000円ならワンコイン(500円)で外出が出来ることは出来ないか。とりあえずは通院を前提としていました。それで稼動していました。結果燃料代にも満たない収益で、運転手の人件費も出ない状態でした。このままでは車検や諸経費も出てこないことになりました。
 たまたま高知銀行の頭取が高知青年会議所の先輩でしたので、福祉活動の説明と支援依頼をしました。年間いくらかの支援をいただきました。ひまわり乳業からも支援いただきました。その他の企業からも支援いただきまして、1年ぐらい稼動させました。
 ただ現在は本業の運送業の業務に支障がありますので、運行は休止しています。

サポートするボランティアの集まりや支援は大変だと思います。そういう方面に協力頼をされてきたのでしょうか?
私も福祉の世界は未知でした。兵庫で車椅子利用者の海水浴がありました。そこへ出掛けていたときに行政の方から、高知市でも障害者をサポートする機関の存在を知りました。高知市旭に障害者福祉センターへ出掛けました。そこのチーフの方にたくさんの人を紹介いただきました。そこから徐々に支援の輪が広がって来ました。
「あきらめないで」の今後の課題、目標を聞かせてください。
閉じこもりがちな障害者と家族をどんどん屋外に連れ出そうという活動内容です。私たちが足代わりになって
海水浴とか、スキーとか、農園などに出向いていただきます。