アンダンテな暮らし B
物語を育む場所

                
            真明育子
飛騨古川の写真をIKUKOさんから提供いただきました。
 
何年か前、縁あって富士五湖の一つ、
山中湖畔の森の奥にしばらく暮らすこ
とになった。
 
 
  初めての朝、夜明けとともにドドドッと、
耳慣れない音が頭上でした。まるで機関
銃のようにも聞こえ、あわてて外に飛び
出したが、音の正体はわからない。あと
で地元の人に話すと、啄木鳥ではないか
という。
 
翌朝、再び同じ音がするので音の方向
を見上げると、小さな野鳥がドリルを思
わせる勢いで、柱に嘴を打ちつけている
ではないか。それまで啄木鳥は、コツン
コツンと木を穿るのかと思い込んでい
たからびっくりした。
 
   その頃、暮らした家には、あえてテレ
ビもオーディオも置かず、仕事がないと
きは、日がな一日、森を眺めた。近所は
別荘ばかりで、普段の日は人影もない。
夜は吸い込まれるような闇が広がるば
かりだ。
たったひとりでそんな場所にいて、それ
を寂しいとか退屈だとか思わなかった
のは、自然とどっぷり向き合うことがあ
まりに面白かったからだ。
 
  野鳥の地鳴きが日増しに大きくなると、
森は春支度を始める。木々は枝先をほん
のりピンク色に染め、根元の雪から少し
ずつ解けていく。
 
 
そして初夏。ご存知だろうか、森を濡ら
す樹雨のことを。木々が吐き出した蒸気
が乳白色の霧となって木々を包み、やが
て大粒の水滴が幹をしたたり落ちる。
秋、夕陽を帯びて金色に輝きながら舞い
散る落葉松の美しさは、言葉に尽くせな
い。氷点下十度以下に冷え込む過酷な冬
は、ギーギーと不気味な唸りをあげて幹
が割れる音が、夜空に響いた。
 
 
  一巡りの季節の中で垣間見た、ドラマチ
ックな自然の営みに、どれほど魅了させ
られ、畏怖したことだろう。
夜は底なしの闇となったが、だからこそ
「星明り」という言葉の意味が実感でき
たし、光に段階があるように、闇にも幾
通りもの深さがあることを実感した。
 
何者かが潜むような闇、正体を明かさぬ
音の主、…。理解しがたい森羅万象は物
語の宝庫だ。古人の創造力を刺激して
、民話や伝説を育んだ。
 
  しかし、現代の都会の暮らしに本物の闇
はない。自然の移ろいが聞き分けられる
ような静寂もない。あるのは、一日中途
切れることのない騒音と、昼も夜もない
興奮ばかりだ。
 
 
  現代は物語が成立しにくい時代なのか
もしれない。