アンダンテな暮らしA

移り行く季節の中で  

早春から休む間もなく咲き誇った色とりどりの花々も、六月になるとすっかり少なくなってくる。入れ替わるように、野も山も、緑がむくむくと盛り上がり、草場からは青い匂いが立ち上る。命の漲りを感じるこの季節が好きだ。
朝の散歩道では、日毎に深さを増す緑陰に白い花がひっそりと咲いている。エゴノキ、ヤマボウシ、ノイバラ、ウツギ、リョウブなど。陽春の愛らしい色の氾濫とも、盛夏の鮮やかな色の競演とも明らかに違う、一瞬の間。白は、晩夏から初夏へと季節を手渡す色なのかもしれない。
森や野原にまで出かけなくても、家の近所でも、都会の真ん中でもむ、季節を味わう手段は無数にある。だが、視界はその風景を捉えていても、それを「見る」心の準備ができていないと、大事なものが見えてこない。
 
かの世界的劇作家カレル・チャペックの著した『園芸家十二ヶ月』(中公文庫)は、園芸の楽しみと困難さをユーモラスに描いた名著だ。その中でチャペックは、一年中植物の世話に奔走するガーデナーが見失っているものを、皮肉を込めて指摘している。
庭が雪の下にしずんでしまったいまごろになって、急に園芸家は思い出す。たった一つ、忘れたことがあったのを。―それは、庭をながめることだ。それというのも―まあ、聞きたまえ―園芸家にはそんなひまがなかったからだ」

残念ながら、ガーデニングを楽しむ人は増えているのに、ゆっくりと季節の移ろいを味わう人は少ない。また、園芸品種の名前は知っていても、身近な野山にある植物の佇まいについては驚くほど無関心だ。

スギやヒノキの植林を見て、「自然が豊かですね」と言う人たちの自然観には鼻白むが、本来の森がいかに多様であるかを知らない人にとっては、禿山でない限り、それは「豊かな自然」ということになるのだろう。
要は、自然に対する感性をどのように養うか、なのだ。
かつて島根県匹見町で、「匹見一〇一椀椀物語」と題したお椀のシリーズを売り出した。同町に生育する雑木約百種で、伝統の椀づくりをしたのである。樹種の特徴がわかるように透明塗料を施し、樹種名が焼印されていた。
ウワズミザクラ、トチ、クリ、ミズナラなど、わたしもいくつか購入した。お椀に温かいお汁をよそおうと、まだ行ったことのない匹見町の雑木林が心に浮び、なんだかやさしい気分になるのだ。
都会ならではのこんな自然との付き合い方もあるのだ。
   
*東京在住のIKUKOさんに写真と「アンダンテの暮らし 移り行く季節のなかで」という文章もいただきました。