品川正治さん講演会  その1
 
司会挨拶
 まず連絡事項がいくつかありますのでお知らせしておきます。まず、会場入り口で配りましたアンケートにご協力ください。今日の後援会の感想、または構わなければ、連絡先等をご記入の上入り口付近に置いてください。
 チラシがいくつかありまして7月20日が木曜日に、なぜ怒らないのかという課題で児玉昌晃さん講演会というのを平和を考える市民セミナーとNPO法人「土と命を守る会」の共催で夜6時半から9時まで高知ホールで開催する予定になっています。
 それから5月20日21日の予定で52回原水爆禁止四国大会in高知というのが原水爆禁止四国ブロック協議会の主催で開催される予定のチラシもあります。それから九条実現バッチシールを広めようという形のチラシもあります。
 それと会場入り口付近でパネル展を開催しております。これは2,004年の8月に宜野湾市に墜落した米軍の海兵隊のヘリコプターの墜落事件に抗議する市民団体から贈られた写真をもとに作られたものです。
 元兵士の証言という書籍本もリーブル出版のものも、入り口付近で販売しております。それともう1点ですが、ネットサイトで昨年の11月16日、この会場で開催しましたフリージャーナリスト安田純平さんの、インターネットラジオにするという前回の約束、今日の時点でようやくそれをあげました。検索エンジンで、「けんちゃんのどこでもコミュニティー」という項目のキーワードを入れて検索すると引っかかりますので、それで見てください。
参考 安田純平さん講演会インターネットラジオ http://www.nc-21.co.jp/dokodemo/gesuto6/y-koenkai2005.html
 定刻になりましたのでただ今から品川正治さん講演会を開催させて頂きたいと思います。まず開演にあたりまして、サロン金曜日代表である松尾美絵よりご挨拶をさせていただきたいと思います。
松尾美絵挨拶市民団体サロン金曜日代表)
 皆様こんにちは。今日は本当に足元の悪い中お忙しい中たくさんお出でいただきまして、本当にありがとうございます。私品川正治さんの講演会を計画いたしましたサロン金曜日を代表して、私松尾より一言ご挨拶を申し上げます。
 現在の日本国憲法は国民の主権、人権の尊重、平和主義を柱にしています。これらはヨーロッパの数々の歴史を踏まえ、また日本においては明治以降、高知県の植木エモリをはじめとするたくさんの人々の経験と知恵を積み重ねたうえに作られました。国民のために国家とはどうあるべきものか、国家権力を規制している憲法として私は素晴らしいものであると思っております。
 特に9条では国際紛争を解決する手段として、武力を行使しないということを明言しています。私は平和憲法の下でこの先もずっと暮らしていきたいと、また次の世代にもこの9条を引き継いでいきたいと思っている者です。
 経済同友会終身幹事であります品川正治さんは、御自身が戦争体験者でもあります。戦争の現実とはどのようなものでありましょうか。また戦後日本の経済はアメリカと密接に結び付いて発展してきました。政治と経済は車の両輪です。戦後60年の日米関係および世界の中の日本をどうとらえていくのか、それは立場によってさまざまでありましょう。
 今日は経済界に身を置く立場である品川正治さんの発言に耳を傾け、政治と経済の現実から見た日本国憲法が意味するものは何かをお聞きしたいと思っております。そしてこれからの日本の未来を私たち国民はどのようにイメージしていくのか、皆様と一緒に考えてまいりたいと思っております。それでは品川正治さんよろしくお願いいたします。
私の座標軸について
 只今ご紹介にあずかりました品川でございます。足場の悪い中をこれだけお集まり願いまして、私の話を聞いていただきますことを誠に光栄でございます。私自身、足を戦争で怪我しておりますので、立っていることが少し難しく座って話をしたいと思います。
 最初に自己紹介かたがた今日の私の話全体を貫く、1つの信条と申しますか、座標軸と申しますか、それについてお話ししたいと思います。
 私は1924年の生まれでございます。大正13年の生まれでです。今年82歳を迎えることになっております。そういう意味ではまさに戦中派中の戦中派です。学業半ばにして、応召し北支の戦線で戦い傷つきました。
 しかし、前線でございましたから、軍医だとかそんなものは居りません。そのままずうっと、戦傷者扱いを受けずに部隊と行動を共にし、翌年の5月に復員してきた。そういう経歴でございます。ここにもご年配の方が見えておるようでございますが、まさに戦中派中の戦中派でございます。
 もう少し詳しく経歴を申しますと。私は神戸の出身です。それで高等学校は京都にまいりました。昔の「紅萌ゆる」という寮歌で知られる三高で御座います。確かに当時は旧制高校に入るということは受験の1番最たる代表でございました。試験勉強、受験雑誌というのは中学校から高校に入るための旺文社が蛍雪時代だとか、そういう形で出しておった時代でございます。
講演会の様子。雨にもかかわらず200人の市民が参加し、品川正治さんの講演に傾聴しました。途中で帰られる人もなく、熱心に聞いておられました。
 そういう意味では受験勉強は当然やったわけでございますが、高等学校に入ってからの勉強態度はすっかり変わりました。
 まるで苦行僧のような勉強の仕方でございます。と申しますのは、勉強できるのはあと2年しかない。その後は兵隊に行って戦地に行って戦死するのだと。そういう観念は特に文科系の私たちは、片時も頭から離れませんでした。
 したがって、その2年の間にどうしても読んでおきたい本は読み終えておきたい。どうしても身につけておきたい知識は身につけて死にたい。そういう気持ちで、それこそ今の方には想像もつかないかと思いますが、高等学校の寮は12時に消灯でございますけれども、その後はロウソクをつけて、ロウ勉と称して本を読んでおりました。
 決して学業そのものをを疎かにしていたということではございませんし、またそういう年齢ですから青春を謳歌してもおりましたけれども、しかし心の底には、今申し上げたような切迫したものから一度も逃れたことはありませんでした。
 その時に私たちの頭を占めていたものは、何と申しますか、国がおこした戦争で国民の1人としてどう生きるのが正しいのか、どう死ぬのが正しいのか、それが最大の疑問でした。

 なんとか戦地に行く前に、そのことだけは自分で納得が得られるような回答を持って、それで戦争に望みたい、そういう感じでございました。ただ私たちよりか5・6年上の年配の方は、マルキシズムの洗礼も受けておりました。社会主義的なものの見方で全体をとらえる術も知っておられました。
 しかし私の時代はもう、その人たちは全部刑務所に入っておりました。京都に一軒だけマルキシズムの本を売って居る大きな古本屋がありました。しかしそれは、完全に囮でした。そこに出入りするものは全部ひっぱられてゆく、そういう時代でありました。そういうことを先輩から教わって、「あそこには近づくなよ」と、そういう形で社会主義というものからは完全に遮断された世界でした。
 しかし問題の立て方は、この戦争は正しいのか、この戦争でどう生きていったらいいのか、国家と国民の関係はどうなのか、全体と個人の関係とはどうなのか。そういう意味で私たちの時代は、本当に限られた世代でございましたが、カントとかヘーゲルだとか哲学の基本的なものに関しまして肌身離さず、皆持ち歩いていたという、誠に特異な時代でございます。
 そういう格好で、高等学校の2年生のときに、やはり予想通り私は兵隊にとられました。で、鳥取の連隊に入隊いたしましたが、その時はすでに第一戦に行く兵隊として、現役という立場で捉えられていました。ここで皆さん方は五味川純平さんだとか、あるいは野間宏さんの話で「人間の条件」だとか「暗い絵」だとか、ああいう形で、戦争というのが、軍隊というものがどんなものかということを読まれた方も多数いらっしゃると思いますが、私の場合は軍隊のいじめというものは経験しておりません。
 これはなぜかというと、最初から第一戦の部隊と決められておったわけなんです。その第一線(最前線)に出て行く兵隊を殴ったら承知しないぞという連隊長からのきついお達しがあって、将校も私たちの初任兵として入隊した八〇名に関してはいっさい手を出しませんでした。
 案の定2週間だけ内地におりまして、前線へ出動という形になりました。で、少年兵教育とかそういうものに関しましても、すべて前線でございました。演習をやっている最中に敵襲を受けたりすることもままございました。しかし私はある大きな作戦で洛陽から出発して西安まで、攻撃をやらされたわけですが、作戦の途中で私の部隊はほぼ全滅いたしました。
 日中戦争当時の写真。教科書に掲載されていたものです。
 私自身が迫撃砲で直撃を受けまして、四発の破片破片を体に受けました。その一発が今足に残っているわけで、それ以外は私自身としてはもう昔の傷跡は残っておりません。ただ多くの戦友をほとんどといっていいほど亡くしております。軍隊経験をお持ちの方には若干耳障りなお話しになりますが、軍隊経験というのは十羽ひとからげに同じ経験で語ることは出来ません。中国にはちょうど終戦時、陸軍が百五万人おりました。満州、今の東北三省には六十万人いました。しかしそのほとんどの人たちが占領軍としていたわけなんです。
 みなさん方は終戦後、マッカーサーの米軍が日本全土を占領していたときのことをご存じの方も多数いらっしゃると思いますが、日本軍は中国大陸を占領していたわけです。したがって、天津、北京、上海、広州、香港、すべて日本軍の占領下にあったわけです。その占領下におる兵隊が9割は占めておりました。いわゆる占領部隊です。日本軍というよりも占領軍としておりました。
 しかし戦闘をしておった部隊というのは、ほんの一握りなんです。ですからまず軍隊経験といっても占領軍としておられたか、戦闘軍としておられたかには大きな違いがあります。
 ただ、中国の戦線では南方に行かれた方、あるいはインパール作戦を戦われた方、ああいう酷い経験はいくら戦闘に明け暮れしておったとしても、武器に格段の差があるような戦争じゃございませんでした。その意味では私の頭の中ではニューギニアで飢え死にされた方、インパール作戦で飢え死にされ病死された方に対しては、私の戦争体験というのはまだまだ本当は生ぬるい体験でございます。
 しかし、少なくとも私たちは戦闘軍としての経験を持ちまして、そこでいろいろな戦争体験をしたわけです。この戦争体験に関する違いは、さきほど言いました占領軍と戦闘軍という違い、それから場所による違い、それともう1つは参謀本部だとか軍司令部におられた方と実際に戦闘をした者との違い、これは階級の差以上に大きな違いなんです。
 確かに階級の違いも大きいです。私は兵隊だったわけです。復員するときに上等兵という格好になりました。私の高等学校の同僚はほとんど全員は将校です。将校体験を皆が持っております。私の場合は先ほど言いました戦争の在り方とかというものを踏まえ、「将校にはならないぞ」という思いががございましたので、ずっと兵隊で通しました。
 で、8月15日を迎えたわけですが、ここでもみなさん方は意外に思われるかもしれませんが、8月15日で中国は戦争を終わっていないんです。占領軍の方は即座に武装解除されました。しかし戦闘軍は11月まで武装解除されなかったんです。もう国共内戦というものが始まっておりまして、日本軍は蒋介石の指揮下に入った形で戦闘をさせられるか、部隊によっては共産軍の傘下に入って戦闘させられるか、いずれにしても戦闘をしておった部隊は武装解除を受けたのは11月でございます。
 それまでの間になんと五万人死んでいるんです。8月から11月までに。これは伏せられておった話です。と申しますのは、8月以降に亡くなった方は戦死じゃないんですね。日本のために死んだわけではないです。しかし、その人たちの遺族のことを考え、遺族の生活のことを考えれば、なんとか戦死者と同じように扱いたいと。たまたま日本の軍隊は、陸軍省、海軍省というのも完全に廃止されて、あの海外を含め五百万といわれた日本の軍隊は厚生省の所管だったんです。
 復員するまでの間は厚生省の復員援護局という一つの局の所管でした。厚生省というのは現在もそうですが、やはり遺族の年金のことが最も大きな課題でしたから、なんとかその人たちは8月15日までに死んだことにしないと年金が払えないと、そういう状況の中でその人たちが皆戦死者として扱われ、現在の靖国神社に入っておるわけです。
 中国はそれを知っております。8月15日以降に重慶軍のために働いた人たちも入っているんじゃないのかということが、早くから知っておりました。しかしそれはあまり問題にしておりません。と申しますのは、日本の兵隊も人民も、少数の軍の指導者のために犠牲になったのだと、それを取り建てて騒ぐことは日本人民を敵に回すことになるのだからそれはやらない。しかし、はっきりとそれは知っております。私自身何度も聞かれたことがございます。
 ちょっと半分冗談めきますが、去年の11月に私は杭州という新しい飛行場が出来た所へいきました。私の足の中の弾がレントゲンで引っかかったんです。「金属のものが膝の中にあるんだけれどもそれは何なんだ」、まさか「あなたの国の弾が入っているんだ」と言うわけにもいきませんでした。「戦争での弾が入っているんだ」と言いましたけれども、私を招待した人が慌てて飛んできて、この人はそういう扱いをしてはいけないんだという格好で救い出されました。最近のレントゲンというのは新しい空港のものは鋭敏だなと思いました。だからこれからはどこの空港でも引っかかるんじゃなかなと思っております。
 本当にそれは余談でございますけれども、そういう意味で負傷しながらも戦地を離れずに部隊と行動を共にして、それで11月に武装解除受けて捕虜収容所というところに入ったわけなんです。ここでは、鄭州の近郊にあった捕虜収容所です。日本の戦闘部隊だったのが大部分ですが、それが約千名一緒に暮らしました。そこで、今日みなさん方にするお話しにも関係がございますが、大きな論争が起こりました。日本は8月15日の敗戦を終戦と呼んでおったわけなんです。それに対して「卑怯だ」と、「負けたじゃないか」と。「負けたらあっさり負けたとするのが当たり前ではないか」と。
 なぜ終戦などという言葉を使うんだと。一部の陸軍士官学校を出られたような軍事指導者的な立場の人は、政府のやり方に対して真っ向から意見を出しまして、政府にも血書のような格好で文章を出したりしておりました。それに対して私たちの兵隊の方は、なぜ敗戦と呼べないのかということに関して、それまで「戦陣訓」だとか「臣民の道」だとか、学校で日本は神国日本・絶対不敗なんだという歴史観を教えられて、だから敗戦とは呼べないことは百も承知のことでした。
 広島原爆直後の写真。日本国中の都市部は焦土と化し、大変悲惨な状況でした。品川正治さんのお話のように「2度と戦争はしたくはない」という気持を日本人は自然に持っていたと思います。
 

 しかし終戦でいいじゃないかと。二度と戦争はしない。そういう意味でわれわれは終戦という言葉を使おう。政府が言っておる意味じゃないんだ。こんだけ苦しい目にあって、こんだけ中国大陸を荒らして、もう自分の生きている限りは二度と戦争はしないと。その決意の表れで、終戦で結構だという、大論争が起こりました。当時その捕虜収容所では雑誌も作っておりましたが、そこでも大論争になりました。終戦派と敗戦派という形で。
 しかし全体で話していくうちに、終戦派が勝ちを占めました。二度と戦争しないという終戦だということに関してわれわれの捕虜収容所に入っている各隊の寄せ集めの形ですけれども、意見が統一されました。それで翌年の5月に山陰の千崎という港に復員したわけなんですが、そのとき新聞で憲法草案がすでに発表されておりました。現在の日本国憲法草案。われわれは歓呼の声をあげました。

 九条二項にはっきり書いている。これは本当に国民の声だと。あるいはアジアの人々に対する贖罪の誓いだと。そういうふうに歓呼して迎えました。当時の世論調査でも8割を超える方があの憲法相互賛成であるとアンケートが残っております。

 あの憲法だれが草案したのか、だれが書いたのかということに関しては、憲法学者の間でもいろいろ問題がございますし、実際に原案を作ったのはマッカーサー総司令部の人たちであることもその通りです。

 しかし彼らが参考にしたのはさきほどお話しがありましたように、この高知出身の植木枝盛だとか、ああいう人たちの作った文案を参考にしたわけなんですね。