橋本知事への反論を述べます
 
 2006年8月15日に橋本大二郎高知県知事は、公共電子掲示板「ぷらっとこうち」に長文の投稿をされました。あるべき県と県民のありかた、電子メディアの活用などが述べられています。

 読みまして吟味しました。私とかなり見解の相違があります。高知市の1市民であるけんちゃんがそのあたりを論評します。

 橋本大二郎さんの文章の全文を部分に分け、それに対して、私のコメントを入れています。*印です。

 
時 代を拓く「協働のメディア」は、いかにあるべきか
〜お暑い中のホットな話題〜

 皆さま、お暑うございます。最近「ぷらっとこうち」の運営をめぐって、熱い議論が戦わされていますが、このサイトの立ち上げを、「県民参加型の県政」を進化させていくための、大切な一歩と位置づけていた当事者として、今回表面化した問題をもとに、今後に向けた考え方をまとめてみました。

 まず、今回の問題を考えているうちに、「県民との協働」を進めるにあたっては、官が民に向けて、受け皿を提供するのではなく、逆に、民の側から官に向けて、協働の場を構えるべきなのではないかと、感じるようになりました。と言っても、それだけでは、何のことかわからないと思いますので、順を追ってご説明をします。

 その中で、この5月以降に起きた、書き込みの削除や登録の抹消に関する事実関係と、双方の見解の違いは、今の時点で、僕が口を差しはさむことではありませんので、ここでは、もう少し根本にさかのぼって考えてみたいと思います。

 
*  双方の言い分を聞いていただいて口出しをしてください。それだけの問題であると思います。
 
 その際、検討の切り口はいくつもありますが、ここでは、関係者との意見交換の中で、自分が気になった言葉をもとに、「責任の所在」、「誹謗中傷の基準」、「『ぷらっとこうち』はメディアか」、「第三者機関の設立」、「『官から民へ』か『民から官へ』か」という項目を追いながら、考えをまとめてみます。

 最初は、「責任の所在」ですが、「ぷらっとこうち」の現状を批判される方からは、責任の所在が不明で、例えば、今回の登録抹消の手続きも、誰の指示で行われたのかがわからない、といった声が聞こえてきます。
 しかし、「責任者を出せ」とか、「誰の指示なのか」と問う発想そのものが、民が官を見る際の、旧態依然の型にとらわれたもので、協働の時代にはふさわしくないと思います。

 
*そういわれるのは理想ではありますが「現実」は異なっています。
 実際に登録抹消を受けたものにすれば、なんとも他人事の発言のように聞こえます。官民協働の場が、責任者不在の無責任の場であるということはありえない話です。

 ぷらっとこうち運営委員会なるものは「官民協働」ではなく「官民癒着」ではないかと思います。2003年発足当時の運営委員5人がいまも居座っているからです。
 責任者不在は県庁組織の中では「無責任極まりない」ことに他なりません。県政情報課長も総務部副部長も責任を取りとがりません。そうなれば任命権者は高知県知事ということになりますね。

 
 

 では、協働の時代の責任とは何かと言えば、それは、官やその中の一個人にあるものではなく、協働の作業に参加している一人一人が、自己責任として負うべきものです。ですから、一人一人の自己責任を、まず自覚すべきで、官の責任者うんぬんは、自分には、協働とは無縁の古くさい考え方に映ります。


 そこで、次には、自己責任が発生する源を考えなくてはなりませんが、その重要なポイントは、「ぷらっとこうち」に参加される時の約束事項です。中には、どこのサイトにもある、形式的なものだと軽く考えて、機械的に了解のクリックを押した方もおられるかもしれませんが、「ぷらっとこうち」を通じて、協働作業の一員になるのですから、これが自己責任の源だとの明確な意識を持って、参加していただかなくてはいけません。

 

*ここが問題の一つです。ぷらっとこうちのルールを「憲法」のようにして現在の運営委員会は自らの存在を正当化しています。その「ルール」なるものより優先するのは「社会常識」ですね。
 つまり「人を殺してはいけない」「ものを盗んではいけない」とはぷらっとこうちのルールには書いてありません。だからしては良いということではないですね。


 それが盲点です。運営委員会成立の根拠も怪しいし、組織の中での位置づけも怪しい。また2003年創設時からの運営委員が5人もずっと留任しています。半数変わる運営委員の選抜を誰がやると言えば現在の運営委員がやります。民主主義とは無縁な「独裁」体制といえるでしょう。

 
 

 その上で、他者を誹謗中傷しないことは、求められる自己責任の一つとして、一般的に守るべきルールだと思いますが、そう言いますと、それでは、「誹謗中傷の基準」は何かと、問う方がいても不思議ではありません。しかし、この問も、「ぷらっとこうち」にはふさわしくないものです。


 その理由は二つあります。その一つは、そもそも誹謗中傷は、差別発言と同様、それをする側が、ここまでは許されるといった基準を決めることではなく、される側がそう感じるかどうかが、目安になるべきだと考えるからです。「これは誹謗中傷ではない」という、基準を作るという考え方自体が、強者の論理ではないかと感じられます。少なくとも「ぷらっとこうち」は、強者のための場ではありません。

 
*そのあたりの基準がとてもぷらっとこうちは曖昧です。
ルールなるものは制定はしていますが、解釈が運営委員会によって恣意的に解釈され、捻じ曲げられている現実があります。
 例えば、以下のわたしの発言は「ルールにもとづいてニックネームで発言している人を誹謗中傷した」という理由で削除されました。

・[671-39] 品性のない匿名での書き込みは高知の恥 西村健一
2006/06/07(月)17:22:05


 それは匿名の発言者は「安全地帯」にいて、好き放題発言し、品性や発言の質におかまいなく発言し続けるからでしょう。きちんと発言されている実名での発言者を誹謗中傷し、憶測での発言でもおかまいなし。

 結局自分と一緒に掲示板の発言者を「道連れ」にし、掲示板全体の品位を低下させる結果になります。それもおかまいなしですね。それが目的の場合もあるのでしょうし。

 「面と向かって発言できないことを書いてはいけない。」と以前申し上げましたが、それを守っていれば感情的な発言や、相手を誹謗中傷する発言は書き込みしないはずです。

 中学生のとき国語の先生にこう言われました。「日記でも後で読まれることを前提に文章を書きなさい。」。平易な表現を心がけ、独りよがりな表現にならないことを諌められました。

 実名であれ、匿名であれ掲示板の発言は、後世に残ります。記録になります。後日匿名での不用意な発言が、「あの発言は、〇さんだった。」と判明されるかもしれません。そうなったときに恥ずかしくない発言をされれば良いのです。

「覆面を被っていたからどうでも発言した。いい加減な発言をしました。本当の私は軽率な発言をする人間ではありません。」と後から弁明しても見苦しいだけです。
 安全地帯におられて気軽に発言されることがありましても、そのあたりは充分ご理解されて発言されるように匿名発言者の皆さまにはお願いする次第です。

・[685-113] 掲示板症候群 西村健一 2006/07/11(火) 08:04:41

 匿名で人を攻撃することばかりしている人は、やがて「常識では考えらない高揚した」ような精神状態になります。こうなりますと抑制は効きません。
 匿名ですから余計歯止めが効かなくなります。

 相手に手紙を書く場合は、原稿を何度も読み直し、推敲します。宛名を書き、切手を貼り、封を閉まる前にもう一度手紙を読み直したりします。文面が一方的すぎる。感情的すぎると気付き、手紙の投函をやめることもあると思います。

 ところが電子メール時代では、感情の赴くまま書き、そのままボタンを押してしまうこともあります。メールで喧嘩になることもあります。メーリングリストなどでもそうした現象は起こります。

 電子掲示板に匿名で投稿していますと「歯止めが」効かなくなります。
特に「論争」しているときなどは、注意をしなければなりません。ご自分の品位と品性を下げることにも平気になりますね。

 掲示板のルールもいろいろあるようですが、以前にも言いましたが「面と向かって相手に言えない言葉は書くべきではない。」というのが最低限のルールでしょう。

 
 もう一つは、「ぷらっとこうち」の目指す方向にかかわることですが、この場は、誰かを追及したり批判したりするための、意見発表の場ではなく、民と官の知識と知恵を寄せ合って、問題や課題を解決していく、または、何かを作りあげていく場だと考えています。
 もちろん、追及や批判の場がいらないと言っているのではありません。そうした場は必要です。しかし、僕が、そして高知県が、「ぷらっとこうち」を通じて目指したものは、そうした、追及や批判を主とする場ではありませんでした。
 県が目指した、県民の皆さんの知恵や知識を、課題解決などに活かしていく場であるかぎり、誹謗中傷と感じられるような表現は無用ですので、少しでも、誹謗中傷と受け取られるような表現を使う場合には、過敏なまでに、自己責任を意識する場であってほしいと思います。
 こうしたことからも、「誹謗中傷の基準」を気にされる方は、県が「ぷらっとこうち」を通じて目指した方向を、誤って理解されていると思われるのですが、そのこととも重なりあって、そうした方々は「ぷらっとこうち」に、マスコミやミニコミと同じ意味での、メディア性があると考えられているように受けとめられます。
 マスコミやミニコミというのは、規模の違いこそあれ、新聞、出版、放送、映画など、情報を大量に伝達するための手段です。そこでは、問題点の追及や批判が大きな使命になりますし、その分、表現の自由の範囲、裏返して言えば、どこからが誹謗中傷にあたるかといった基準が、重要な意味を持つことになります。

 しかし、「ぷらっとこうち」は、マスコミやミニコミのような、一方的な伝達手段ではありませんし、先程申し上げた、その目指すべき方向から考えても、基本的に、そのような性格を持つべきではありません。
 確かに「ぷらっとこうち」も、人と人とをつなぐ、また、お互いの意見を紡ぎあわせていくための、メディア(媒体)であることに違いはありません。しかし、メディアであれば何でも、マス・メディアやミニコミと同様の性格を持つかと言えば、そんなことはありません。ここでも、従来のマスコミやミニコミとは違った、「ぷらっとこうち」という新しい協働のメディアを、自分たちで作りあげていくという、改革と創造の視点が必要になります。

 
*空論ではなく具体例を示していただきたい。
双方向のメディアであるというのであれば、規制だらけの、運営委員会の恣意性でどうにでもなる「ぷらっとこうち」はいかにもおかしなものになりますね。
 本気で県民と県職員との「協働」を目指すのであれば、異論を排除してはいけません。どうも運営委員会も事務局も議論のやりかた、会議のまとめかた、が全く稚拙です。技術的欠陥があると申し上げましょう。
 頭の中だけでの「まちづくり」であり、実践に媒介されていないだけに異論をまとめようとする感覚がなく、すぐに排除しようとするです。

 異論があると言うことは、逆にチャンスであり、自分達のこしらえたルールを超えた事態になることをむしろ喜ぶ度量が必要でしょう。
 結果的に自分達の尺度に合わないものを排除する運営委員会の姿勢は、知事の言う「新しい協働のメディア」のあるべき姿勢ではありません。

 
 あわせて、マス・メディア的なメディアとの混同から、それをチェックするための「第三者機関」が必要だといった考え方が、出てくるのだと思いますが、そもそも、「第三者機関」とは、どういう人で構成される機関なのでしょうか。そのことを主張されている方からは、現在700人余りいる会員の中から、選挙で選ぶといった考え方が聞こえてきましたが、これは、一見民主主義的に見えながら、実際には、民主主義をおびやかす危険性をはらんでいます。


 というのも、こうした制度を作った場合、世間を騒がせている、カルト教団のようなグループが大量に会員登録をすれば、自分たちの考え方を、一般的な考え方かのように見せかけることが、容易に可能になるからです。それならと、いわゆる有識者を選べば、その有識者が自分の意に添わない人だった場合に、「誰が選んだのか」、「選び方に客観性が保たれていない」などの批判が、際限なく、繰り返されることでしょう。

 
*このあたりの性急な解釈はわかりません。第1現在の「運営委員会」なるものの生い立ちも怪しいものです。2003年創立時のメンバーが未だに数人います。また今回住民監査請求で問題になったように、事務局にシステム管理者もいます。
*運営委員会委員は「審判」の役目でしょうが、その「審判」が匿名で無責任な発言をぷらっとこうちで繰り返しています。かつて私は「運営委員のだれだれさんでしょう、匿名で無責任な発言をやめていただきたい」とぷらっとこうち上で注意をしますと「ニックネームの人を特定する行為」でルール違反であると削除されました。
 
*最近の議論ではsaburooという人がまともな発言をされています。

「[711-60] Re:なんだか、おかしい??? saburoo 2006/08/14(月) 17:51:33
>711-58
saburooさんは言いました。

>「みんなでよくするぷらっとこうち2006 」の会議室なんて、本来、森さんのような方がりーだーになって開くもであって、その話題には、普通、運営委員は、いっさい関わらないようにすることが望ましいと思うのですが。
>その中で、取り入れる議案があれば、運営委員が運営会議にはかればいいことだと思います。

たとえ、ニックネームでごまかして、この上記の会議室に運営委員が書き込んでも、書いてる内容や、日が経つにつれて、だれが運営委員か、一般者には、そのうち、わかってきます。
運営に関する掲示板の話題も同じことです。

運営に関心のある一般参加者の方が、「みんなでよくするぷらっとこうち2006 」中で活発に論議して、それが運営委員会の中傷、誹謗であれば、きちんと、運営委員の委員長さんや議長さんが、代表して、たんたんとその旨、警告して、終わりです。
運営委員会に取り上げたい、議論があれば、運営委員は運営委員会で論議すればよいことであって、一般参加者の論議は別世界なのが普通ではないでしょうか。
運営委員が、一般参加者の論議、討議の中へ、すこし立ち入りすぎているのではないでしょうか。

 
 以上、考えてきましたように、「ぷらっとこうち」の持つ性格や、目指すべき方向に関して、メンバーの中に、異なった考え方が同居していることが、問題の根幹だと思われますので、そこから派生的に生じたことをもとに、対立を続けてみても、時間の浪費にしかならないと思われます。
 ですから、まずは一旦熱をさました上で、県が、「ぷらっとこうち」という新しい時代の協働のメディアにかけた思いを、もう一度、考えてみていただきたいと思います。とはいえ、当然のことながら、県の考え方に賛成か反対かは、それぞれの個人の自由ですが、この場を、他者を攻撃する場としてではなく、協働による新しい仕組みづくりに使おうと考えられるのならば、そのことを前提とした取り組みをお願いします。
 ただ、それでも、理解は出来ない、これからも、自分の言いたいことを言い続けるという方がおられた時に、官が関与するというこのサイトの性格から、簡単にその方々に出ていっていただくことは出来ません。このことが、官が関与したサイトの持つ限界ですし、矛盾と言えるかもしれません。
 
*それに県側の事務局の「忍耐力」が耐えられなかったのでしょう。
これしきのこと、異論を排除することでは、他の県政の重要課題などとても県民と県職員が「協働」で取り組みことなのはありえません。

*これしきのことで耐えられない事務局(県職員)であるならば、「県民との協働」などという言葉を使用すべきではありません。
 県庁はいつも「選抜」されたお行儀の良い県民しか相手にしないので、県民の多様性が理解できないのです。
 
*ヨットなどでも風の強い冬場の海を経験してこそ、安全にセーリングが出来ますし、他人の指導も出来るものなのですね。夏場の風の弱いときだけのセーリングしたことがなければ「不測の事態」に対応できませんね。夏場でも天気図に現れない前線が海上に発生したり、突然の突風はあります。そのとき慌てない為には冬の海でのセーリングが不可欠であることは理解できると思います。

 
 では、なぜ、内在するこうした限界に薄々気づきながら、県(官)が関与するサイトを設けたのかですが、一つには、「開かれた県政」や「県民参加型の県政」を、一貫して県の側から投げかけてきた経過から、この新しい協働の場づくりも、まずは県の信用力の掌中でと考えたことが挙げられます。

 ただ、それだけでなく、官と民の協働を進めるには、官の側の積極的な参加が必要になりますので、そのためには、県が主催するサイトの方が、県の職員が入りやすいのではとも考えたことも、大きな理由の一つでした。しかし、これは完全な思惑はずれで、例え県の主催であっても、余計なことに口を出しているゆとりはないし、そのことで、県の職員としての責任を求められてはたまらないという、職員の一般的な受けとめ方を、払拭することは出来ませんでした。
 それならば、官が背負う公平性の十字架から、本来の目標とは違うことにも関わらざるを得ないという矛盾を、これ以上、抱えていく必要があるのだろうかとも思えてきます。

 
*社会実験としてはまだ終わってはいないと思います。考えられる想定条件をどんどん体験させた方が、事務局の県職員の皆さんにはとても良い勉強になるとは思いますね。
 荒天時のセーリングを体験したことになります。前向きな気持で取り組めばとても良い体験にはなるでしょう。ただし、それは話し合いを進めてそうなったのではなく、強権的な態度(登録抹消)措置をすれば、すべて上手くいくという浅はかな考え方が破綻したことによりますね。
 
 それが、最後に掲げた、「『官から民へ』から『民から官へ』へ」の考え方につながっていきます。その心は何かと言えば、先程も触れましたように、これまで進めてきた、「開かれた県政」や「県民参加型の県政」への取り組みは、「県政車座談義」や「知事への手紙」、「情報公開」や「ワークショップ」、さらには、「ぷらっとこうち」の前身になった「県民参加の予算づくりモデル事業」に至るまで、すべて、県庁の側から、県民の皆さんに手を差しのべたものばかりでした。それは、県庁に情報が集中している上、予算の編成権も委ねられているという立場から、当然と言えば当然のことだったのですが、その延長線上として「ぷらっとこうち」も、県が場づくりをして、県民の皆さんを迎えいれるという形を取りました。

 しかし、課題解決の道筋を考えるとか、何らかの意思を形成していくといった、官と民との協働作業を進めるにあたっては、何も官が場を設けて、民を迎えいれるという形だけでなく、民が場を設けて、そこに官が参加していく形でも、いいのではないかと思うようになりました。
 特に、官が関与するからといって、目論んでいた、職員の参加にはつながらないとすれば、むしろ、民の設けた場に、知事をはじめ、こうした取り組みに積極的な職員が、率先して加入していく方が、目指す方向に近い動きが作れるのではないかと感じたのです。また、そうすれば、官のように、公平性の原則に縛られて、本来の方向性を失いかねないといったリスクを、負わなくてもよくなります。逆に、民のサイトであれば、基本的な考え方の違う人は排除して、民と官の知識と知恵で、課題の解決にあたるといった、本来の趣旨をルールとして受けいれた人達の手で、協働の実践に集中的に打ち込むことができます。
 もちろん、追及や批判が必要だという方は、そういう考え方のサイトを開いて、官への参加の呼びかけをしていけばいいのです。少なくとも、現在の状況は、この二つの流れが分けられないまま、強い力に押し流される傾向になっていると感じられます。双方にとって、無駄なエネルギーが多すぎるように思えてなりません。

 今回のことは、結果的に、メディア論から協働のための新しい道筋にいたるまで、「県民参加型の県政」の今後や、次世代の民主主義のツールなどを考える上で、大変いい機会になりました。自分の知事としての15年間の歩みや、現在起きていることを踏まえながら、真剣に考えましたので、かなりの長文になりました。また、まとまりの悪い面もあろうかと思いますが、その点は、お許しを願いたいと思います。

 現時点では、「ぷらっとこうち」が本来目指した役割を、一人でも多くの方に理解をいただいて、その方向で、この革新的な場が機能していくことを願っています。県民の皆さんを愚民視したら、協働は生まれません。それと同様に、県の職員を批判して、自分の言うことを聞かせようとするだけでは、協働は生まれません。まずは、お互いが足らざる点を自認し、持てるものを差し出すことで、何かを作り出してみてはどうでしょうか。

 
*県民の批判をきちんと受け止め、きっちり反論できる県職員が育っていないことにとても残念であると思います。
 ぷらっとこうちの問題をむしろ前向きに考え、受け止める姿勢が関係している県職員各位になれば、結果も異なるものとなっただけに残念です。

*「情報に強い」知事を今後も標榜するのであれば、先日提案しました「再建私案」も一つですが、「常識的な県庁の発想」=(社会の非常識)では全然駄目であるということですね。
 会議のやりかた、異論があっても合意形成を図るやり方などは、むしろ民間が進んでいます。「ロバート議事法」などがまさに会議の「憲法」として活用されたらいかがでしょうか。

*考え方の異なるものが正面からぶつかり議論をすることはとても大事です。まして自由民権運動の土佐であれば尚更です。
 しかし正面からの議論を避け、さしたる根拠もなく、私と竹内隆志さんを「排除」することで自分達の存在を正当化する行為は到底容認できないことを宣言します。


*彼らが過ちを認めない限り、私たちの名誉は回復しません。認めない限りは戦いは止められません。いつまでも続きます。それは運営委員会が仕掛けたことなのですから。

*ぷらっとこうちの問題は小さな問題ではありません。社会実験としては良い事例ではないでしょうか。
 もはや県庁職員のレベルでは無理でしょう。本気で市民との「協働」であれば、橋本さんが自ら乗り出して問題を解決し、県職員と県民にお手本を見せていただきたいものです。

*県庁内組織の限界も露呈してむしろ良かったと思います。重要政策課題のシュミレーションになったからです。

*今でも商船大学では帆船航海が義務付けられています。コンピューター制御の航行が全盛時代ですが、風と波を読む個々人の度量と、帆船航海による乗組員同士の助け合いがフレンドシップを生むからです。

*「頭の中だけの」実験に留まった県職員のレベルでは問題は解決出来ません。8月17日も登録抹消されてから運営委員会を傍聴しました。
 議論も実際の市民活動とは遊離していまして、「絵空事」の議論でした。県の政策と市民とを繋ぐ活動をしていない人たちの議論は聞いていましてとても虚しいです。

*わたしは私を処分に関与した7人の県職員が橋本さんが県政を担った15年の「成果」であるとは思いたくありません。
 「ピンチはチャンス」であると思います。

*橋本さんには敢えて火中の栗を拾っていただきたいです。でもそれで実験すれば他へも応用が利きますし、県職員の実務的な研修になるのですから。


 2006年8月19日