大都市と地方都市の違いについて
 
 今週のゲストは、雑誌Velocity編集長であり、高知大学医学部学生の武田幸恵さんです。今日のテーマは「大都市と地方都市の違いについて」でお話を伺います。
 武田さんは大阪府高槻市(人口35万人)のご出身。京都や、名古屋の学校へ通学され、現在は高知県南国市にある高知大学医学部に入学されました。
「文化的なギャップ」があったのではないでしょうか?大都市部では当たり前の事柄が、地方都市ではありえない部分があるのでしょうか?
 物質的なもの(インフラなど)の違いは自明なのですが、それよりも「コミュニティ」の性質の違いが自分にとっては大きかったです。
 今までの暮らしでは、「消費の過程を楽しむ為のコミュニティ」、つまり、カラオケに行くためのクラスの友達、ライブに一緒に行くためのサークルの先輩・・・などというように、目的によって周りの人を「誘い分けていた」傾向が自分にあったと思います。
 特定の人達とずっと一緒、てな事はあり得ないワケでして、「自分が求めれば必要な目的にあったコミュニティ」が存在してるんです、大都市では。それなりに探せば、既にある程度のシステムが確立されている任意団体がある。それを自分の中で使い分けることによって、自分という人格が持つ(少ないながらの)多様性を全て発揮するチャンスが、意識する事なく用意されていたのです。

 地方に来れば、その『消費目的』を提供する場自体が少ない、その時に私は自分の「人との距離のとり方」について、初めて意識的になったのです。普通は逆ですよね、きっと。
田舎から出てきた人が、『全人的な付き合い』をあまり好まない大都市の人たちとの距離感に悩む、という話はよく聞かれることなのですが。
 一面的な付き合いで、充分に満足していた自分が、「全人的な付き合いを要するコミュニティの中に属する」ときに、自分の持つ人格の多面性が充分に発揮されず、それがフラストレーションの原因になったのだと考えています。

武田幸恵さん
 あと、自分の「毒舌な」部分を、地元では『愛情を込めた嘲笑』をしていてくれていたのですが、こちらにくるとまともに受け取られてしまう事が多く、「純粋だな〜」と思うのと同時に、反応がやや単純で少し物足りない、と思う事もありました。それは、個人差だと思いますので、何が悪い、という事ではありません。
 武田さんは、京都や名古屋の学校に通学されているとのことでした。
京都や、名古屋の魅力はなにでしょうか?人口が多く、学生も多く、若者達がたくさんいるからなのでししょうか?それは高知ではありえませんし。
中学・高校時代は京都での学生生活。
16歳頃にはバンド活動もされていました。
 先ほどの話とも重複する部分がございますが、個人的な話で言及しますと、「自分がもっと深くハマりたい」と思っていたジャンルでの、オピニオンリーダーの存在が身近に感じられた事が、大都市にいて最もエキサイティングだったんだと感じています。
例えば、自主映画やミニマルミュージック(バンド音楽)について、さらに見識を深めたい、そういう時に高知に来ることになったのですが、その方面の「本物・一流」になかなか会えない。(いらっしゃるんだろうな、とは思うものの、レベルや年齢層が違いすぎて所属されているコミュニティに入ることを敬遠してしまうフシがありました。)自分と同年代の人で、自分の趣味が合う人がたまたま少なかったのです。
そういう時に、「分け隔てなく誰とでもお話できる素直な気持ち」というものが大事なんだな、と気づかされますし、逆に「多少屈折していてもその人格を受け入れてくれる多様さ」が大都市にはあって、そのぬるい集まりから脱却できていない自分もいます。

 特に、京都は日本で一番学生が多い都市で、その中で高校生活を送った人間としては、『大学生が生み出す驚異的な文化力』を目の当たりにしており、そのデカダンさを湛えた、確実に蔓延している得体の知れないムードに陶酔さえしていた程なのです。
そういう『品があり、退廃的ながらも、ある一線で生産行動をする』人種として、自分の理想的な大学生像を構築していたので、高知県ではやはり少ない大学生の層からは、なかなか出てこないものではないかな、と思っています。ただ自分の描いていた『大学生活』の理想が叶わなかっただけです。
もちろん第一線で活躍されている、とても素晴らしい学生の方々は沢山いらっしゃいます。そういう方々を取り上げる事が、大学生のパワーを発揮できる機運を呼び起こすのでは、とも考えています。数が少ない分、大学生の地位が低すぎます、高知では。

 確かに地方では大規模ロックコンサートなどの機会も少ないです。(1988年の様子)

 雑誌Velotyの企画書の中で「東京から発信される「最新」のおしゃれなメディアに対して、あるいはそれによって可能性を制限されている「ださい」ローカルメディアに対して、また氾濫する情報にカタログ化しつつある雑誌メディアに対して、velocityはもうひとつの道を示したい。」とあります。Velocity創刊号により、新しい道は表現されてのでしょうか?
 「21世紀は完全に失われたもののノスタルジーを追い求める時代である。」と私は思っています。つい先日出ました「高知遺産」というベストセラーの本のようにあるものに目を向けるという視線にとても共感しています。
 ただ農家や漁業を礼賛するというだけですと若者が飽きてしまうという懸念もあります。そこをどうやって若者達にいまあるものを素直に「良い」と思える気持ちを起こさせるかが、私たちの課題です。その部分は「デザイン力の強化」「お洒落に見せる」ことです。
 お洒落に見せるというところが、若者が一番浸透する部分だと思います。底に力を入れております。創刊号ですがその部分は、まだ達成されていません。完全に新しい道が表現されているかというとそうではありません。
高知にはまだまだ紹介されていない自然風景や、祭りや田舎文化はたくさんあります。
 「高知地域には10代後半から20代の若者層をターゲットにしたメデイァは存在しなかった。」と武田さんは言われます。進学や県外への就職なので、大量に都市部へ高知から若者達が流失しているからではないでしょうか?
 ご指摘の通り、若者達が大量に流出しているからです。
 一般の編集会社が採算を取ることが難しい市場だからこそ、私たちのような自然発生的で、限りなく非営利に近い団体がこの業務を担うことがフィットするのではないかな、と。
 数が少ない層ではありますが、若い人のもつ環境を大事にしないとそれこそ高知県は活力を失います。ぽっかり空いているこの層を「質的」に充実させる、それを自分たちが少しでもお手伝いできればいいな、と考えています。それが単なる思いあがりにならないように、日々研究をしていくつもりです。
子ども時代にはピアノ教室やスイミングスクールにも地域社会の中で通われていました。
「ないものねだり」も時には必要ですが、地方の事情もあります。要は「住めば都」の感覚が必要ではないかと思いますが。
 そうですね。コミュニティに入れこめたら楽しいと思います。しかしコミュニティに入れず、1人で寂しい思いをしている都会の不器用な人もいると思います。
 例えば大都市でありましたら、「オタク」や「ひきこもり」と言われる存在でありましても1人で十分に過ごせる環境があります。
 しかし高知県でありましたら、1人であれば病気になるか、出て行くしかない。そこのところで「人間のコミュニティ力」を育てなければなりません。
 大学でのサークル活動に入るなり、外への団体へ参加するなりして自分達で動かないと楽しくありません。
 いつでもどこでも黎(レイ)家のコミュニティは出来るようです。武田幸恵さんは、一番右端です。旅行の途中なのでしょうか。
  中国西安で従姉妹と。1999年です。
はりまや橋サロンでは七輪を囲んだ交流会も開催されています。
地方都市ならではのコミュニティが形成されつつあります。
* ご親類で海外旅行されている写真は武田幸恵さんに提供いただきました。